あの本番を終えた時から、この曲を聴く度に思っていた。
いつかまた吹きたい。
その時は必ず、自分の音楽として奏でたい。
この曲との出会いは、2009年のJapan Band Clinic。
確か、新譜リーディングのうちの一曲で、その時所属していた会社の吹奏楽団では、ソロパートを、フルートとオーボエとトランペットに分けて演奏したのですが、ファイナルコンサートでは、シカゴ響のクリス・マーティンがコルネットでソロを吹いて、それを聴いてものすごく感動したのを覚えています。
その後、プロムナードコンサートでまたこの曲をやることになって、その時は私がクリス・マーティンのように、最初から最後まで一人でソロパートを吹く機会をいただいたけれど、その頃の私は、自分が選んで進んだ道で、首席という立場で吹かせていただいていたにもかかわらず、いつの間にか「音楽していない」状態で演奏している日々でした。
もちろん、毎週のようにやってくる本番では最善を尽くしていたけれど、今振り返ると、あの頃の私は、完全に義務として吹いていたと思う。
それに気がついたのは、上海で演奏活動をするようになってから。
夫の海外赴任帯同のため、会社を一旦退職して、帰国したらまた復職させていただけるという制度を使って退職した日から、なんだかとっても自由になれた気がして、大学を卒業してからずっと抱いていた、「もしも就職しないで演奏活動をしていたら、今頃どんな生活を送っていただろう」という思いを、自らの手で確認することができる機会が訪れたからだと思う。
もちろん、夫の帯同で来ているから、お金を稼ぐことはできなくて、そういう意味では、純粋に音楽をすることだけを考えればいい環境。
まるで神様が、「一度やってみて確認したらいいんじゃない?」と背中を押してくださっているかのよう。
私が上海で演奏活動しているのは、そんな背景もあって、ある意味、自己認識しようとしているのだと思う。
そんな今日この頃、高校時代の吹奏楽部の恩師とFBで再会して、その先生がホームページを作られていることを知りました。
そこには、高校時代に配られていた部活動通信が掲載されていて、自分が現役の頃の記事を読み返してみたら、あの頃は頭で考えても分からなかったメッセージが、今は理解できている自分に気がつきました。
先生から「音楽をする」ことについて教わったのはもちろん、それを通して、「生き方」そのものを教わっていたのだと気づき、私の第一次社会人時代を振り返ると、楽器を吹く上で、「音楽をしていた」と思える時期は、それほど多くはなかったのだということにも気づいてしまいました。
多分、日本の吹奏楽界では最高と言える環境だと思うし、演奏レベルもけっして低くはない。
だけどそこで、本物の音楽を知っていて、それを目指して演奏している奏者が、一体どのくらいいただろうか。
吹奏楽団の活動もメンバーも大好きだったし、所属していた頃は一番の居場所だったし、私にとって必要な経験だったけれど、ここ上海で自分の音楽を自由に奏でられる今の方が、先生に胸を張って「音楽しています」と言える。
先生が、私の高校時代の音楽の先生・吹奏楽部の先生で、本当によかった。
今、心から感謝しています。
今までずっと、「教える」ということにそれほど関心がなかったけれど、楽器の吹き方や演奏すること、そして音楽を通じて、人が人として生きていくために一番大切なことを伝えられるのなら、それほど生き甲斐を感じられる仕事はないのかもって思います。
このあたりは、子供をもってから変わってきた気もします。
息子を産んだ日、私が初めて母になったあの瞬間から、子育てをしながら楽器を続けるのは難しいかも、でも諦めたくないと思った私。
私は母でありながらも一人の人間だし、フルート吹き。
どれか一つの自分になるなんて考えもしなかったし、自分がどんな環境に置かれたとしても、その時の自分にできることを精一杯やれば、きっと何か新しい発見があって、少しずつだけど、新たな扉が開いていく。
そう信じて前へ進んでいきたいと思います。
ダンナの駐在が終わって本帰国したら、私はまた復職するつもりです。
吹奏楽団はもちろん、仕事や会社そのものが好きだから。
「演奏すること」だけを職とするのではなく、音楽や楽器に携わる会社を選んで、本当によかったなぁと思っています。
その日がくるまで、ここ上海で、自分の音楽を奏でていきたい。
そんな思いを込めて、この曲をもう一度演奏したいと思います。
まずはそれに向けて、できることから進めていく。
そんな小さな積み重ねこそが大切だということを、高校の恩師は教えてくださいました。